藤子・F・不二雄SF短編全集を買った。ドラえもんとかキテレツ大百科とかではない、単体の短編だけを集めた全集。藤子・F・不二雄は割と大人向けの漫画も書いている。絵のタッチはいつもの藤子・F・不二雄っぽい絵柄だが、話の内容がちょっと風刺的だったり皮肉な感じだったりするSF短編。全集はおおむね時系列ごとに収録されており、1巻は1970年前後に書かれた物が収録されていた。つまりだいたい50年前の漫画。この時代の漫画は今と漫画の文法が違って読みづらいことも多いのだけど、藤子・F・不二雄はあまりトリッキーな表現を使わないので今読んでもすんなりと読み進めることができる。そして基本的に話は普遍的で、実に面白い。世にも奇妙な物語っぽさがある(実際世にも奇妙な物語の原作になった話もある)。ただ話の根幹は時代を超えた面白さがあるのだが、徹底的に時代性を取り除いた星新一作品と違い、藤子・F・不二雄作品には少しだけ時代性も残されており、その辺が「おやっ」と引っかかるポイントが多々あった。高齢者が家庭内で疎まれる『じじぬき』という話があるのだが、その中で4人テーブルに祖父以外の夫・妻・子1・子2が先座っており、祖父が座れずに憤慨するシーンがある。憤慨した祖父を見て妻が「ごめんなさーい。テーブルが四角なもんでつい…」といって祖父に席を譲る。これは妻が祖父が座るべき席に勝手に居座っている、この家庭の中で祖父が軽んじられていることを表すシーンなのだが、逆に言えばつまりこの家庭では妻に定席がないのだ。妻はみんなが食事をしている間は炊事をして、みんなが食事を終えた後に一人で食事をするというのが当たり前なのだろう。なんだ。男女差別だ。けしからん。と言いたいのは山々だが、自分の家も若干その形態に近い食事の仕方をすることがよくあった。母親の席は当然あるが、食べるタイミングが違う。祖父母の家に行ったときはなおさらその傾向が強かったような気がする。そう単純に自分には昭和の文化を断罪する立場にない。節々からリベラルさが漂う藤子・F・不二雄がこの当時とくだん保守的だったとは思えない。当時として目一杯進歩的でもこのあたりの未来の雰囲気は予想できなかったのか、それともメインストーリーとは関係ない未来描写で読者を混乱させないための工夫だったのか。まぁとはいえ作品の魅力そのものを曇らせるほどの欠点ではないので、そこは時を経た作品の味わいとして楽しんでいる。それはそうと藤子・F・不二雄SF短編が1970年頃のスタートで、それから約20年後の攻殻機動隊が1989年。そして攻殻機動隊からも30年以上経っている。この50年で人類の未来へ対する想像力はどれほど広がっただろうかとふと考えてみたりする。個人的に令和最新版SFは『AIの遺電子』だと思っている。攻殻機動隊が世に出されて以降のネットの現実の歩みをAIの遺電子は丁寧に取り入れて反芻し解像度の高い未来に昇華している。素晴らしい。しかし攻殻機動隊から30年経ってるのに、未来に対する想像力の拡大スピードはゆっくりめな気がしないでも無い。脳みそをネットに繋ぐ、AIが人類を凌駕する、の次がないというか。まぁ実際は自分が知らないだけでもっと斬新な未来を提示したSFはそこらに眠っており、2023年の現状から飛躍しすぎてリアリティのあるSFとして捉えられていないだけなんだろうな。