ダメージジーンズ

今朝会社に行くときにジーンズが道路の真ん中に落ちていた。何度も車に轢かれたのかタイヤの跡が無数に付いていた。しかし意外と状態は良く、破けていたりはしていなかった。そしてさっき会社から帰ると同じ場所に朝のジーンズがまた落ちていた。朝見た時よりもさらに轢かれ、もう道路と一体化してシールのようにぺしゃんこになっていた。しかしそれでも破けたりはしていなかった。ジーンズは丈夫だとよく聞いていたが、車で一日中何度も何度も轢かれたくらいではダメージジーンズのように破けはしないというのは驚きだった。では世に出回っているダメージジーンズのように破けるには一体どれだけのダメージが必要なのだろうか。前々から「どんなにハードに履いてもダメージジーンズのような破け方はしないのではないか」と疑念を抱いていたが、今日それが確信に変わった。

自分はダメージジーンズがあまり好きでは無い。街でダメージジーンズを履いてる人が実際に炭鉱労働でジーンズをボロボロにしたわけでは無いことは当然知っている。そういうファッションだと言うことは分かる。とは言えジーンズの物語性的なものを背負うのならば、相応のリアリティ、相応のリスペクトが必要では無いだろうか、と思ってしまう。同じ理由で、本や本棚を模した模造の置物にも拒否感を抱いてしまう。肉体労働のファッションを表面だけ真似る行為は肉体労働から一番遠いところにあり、知的なものを表面だけ真似る行為は知性から一番遠いところにある、という偏見がある。

もちろん自分の中にもそういった表面だけ真似る軽薄さやごっこ遊びする軽率さが無いわけでは無く、反省すべき点は色々思い浮かぶ。YouTubeのゆっくり解説動画を観て教養を得た気分になったり、研究者的なバックグラウンドがないにも関わらずそういう人の振る舞いを真似することもある。

とは言えそういう行為にも功罪の『功』の部分はあって、将棋業界は大勢の将棋が下手な人に支えられてるし、プロ野球も大勢の野球が下手な人に支えられている。プロゲーマーの配信に投げ銭してる人がゲームが上手いとは限らない。ホンモノだけでは産業は成立しない。大多数のワナビーがいるからプロは成立する。みんなが反知性主義に向かい学者を迫害する社会よりは、みんながファスト教養で自分が賢くなったと錯覚する社会の方が幾分かマシだろう。とは言え模倣して一体化したい気持ちと本物へのリスペクトとをちょうど良いバランスで保っていきたくはある。