GMOペパボ鹿児島オフィス Advent Calendar 2023 12日目
11日目はkyokutyoさんの『鹿児島スマッシュブラザース2023』でした。
こういう機会なので普段はあまり書かないキャリアキーノート的なものを書いてみようかなと思い、下書きとして断片的なエピソードを雑に書き殴ったものの、あんまり話としてまとまらなかったので下書きのまま書き残しておきます。
キャリアキーノートがどういうものかは25日のbobさんの記事で詳しく触れられる思います。
将来の夢
子供の頃の夢は、悪の軍団のNo2になることだった。毎週次々と新メカや新怪人を送り出し、自分自身は戦わない。そういうポジションに憧れていた。戦隊モノの博士のポジションにも似ているが、正義の側は年に数回しか新兵器をリリースしないのに対し、悪の側は毎週新しい兵器を生み出すので魅力的な職業に思えた。
インターネットとの出会い
インターネットとの最初の出会いはなんとも微妙だった。家のプロバイダがSo-netで、ブラウザの初期設定もSo-netのページになっていた。So-netは当時ポータルサイト的なこともやってたのだけど、そこに登録されているサイトはごくわずかで、知ってる単語で検索しても全然何もヒットしなかった。当時の自分はSo-netのトップページから行ける範囲がインターネットだと思っていた。
その状態が長らく続いたが、何かの拍子にYahoo!の存在を知ってからは任天堂やカードゲームのファンサイトなど色々見て回るようになった。学校の同級生に2chとFLASH動画の存在を教えて貰ってからはますますネットにどっぷりはまっていった。
うちの親はゲームに厳しく、ゲームを1日30分しか遊ばせて貰えない家だった。30分ではRPGで隣の町にたどり着くのも一苦労、ドラクエ3で最初のアリアハン大陸を出るのに何週間もかかった。そんな家庭環境だったが、インターネットに関しては何時間やっても怒られなかった。家にネットが敷かれた当初は従量課金制で、やればやっただけ電話代がかかる契約だったが、野放しにしてくれていた。
みんなの木
学生時代、自分は2chに入り浸っていた。自分がよく滞在しているスレに、ある日プログラミングが趣味の人が現れ「何かWebアプリケーションを作りたいからアイデア募集」というようなことを書き込んでいた。そこで自分が「携帯の基地局のアンテナを木に見立てて、みんなで水をやって花を咲かせる位置情報ゲーム」というアイデアを書いたところ、数日後にその人が本当にそういうWebサービスを作ってきた。
それを見て、『自分のアイデアが形になった嬉しさ』と、『それを形にする能力と行動力が自分にないことの悔しさ』を味わった。アイデアだけあってもそれを形にできなければ意味がない。アイデアを形にできる人にならねば…と、この時思った。
TDD
大学は情報系の学部に入った。大学時代、自分は3限目になると無性にお腹が痛くなった。別にストレスを感じていたとかそういうことではない。学食でランチをお腹いっぱい食べて、ちょうどトイレに行きたくなるタイミングが3限目だったのだ。そしてその現象は月曜日に起こることが多く、月曜日の3限目はJavaの授業だった。
生理現象とはいえ同じ授業で毎回途中退席するのはちょっと気まずい。しかしさいわいなことに、Javaの授業は90分のうち前半の45分は座学で、残り45分は課題を各自で解くという二部構成だった。課題を早く終わらせた人は途中退出が許された。
自分は便意に襲われながら必死に課題を解き、即トイレに走った。このトイレ駆動開発(TDD:Toilet Driven Development)によって課題を解く速度は週を重ねるごとに加速していき、いつしかクラスで1番か2番目に早く課題を提出するようになった。
便意に駆られた行動ではあったが、「自分はもしかしてプログラミング得意なのでは?」と思うようになったきっかけはこれだった。
Kくん
自信を持つきっかけは便意に襲われたJavaの授業で、自信を打ち砕かれたきっかけは同じ研究室に配属されたKくんだった。
Kくんは、大学入学前から自作のフォントをネットに公開してそれがパソコン雑誌にも掲載されていたり、入学してからもGoogleが開催したウィジットアプリのコンテストで優勝していたりと、研究室で一緒になる前から『凄い人』として学年の中では有名だった。
ある日、自分はKくんとは別の、Tくんと一緒に卒論のテーマを何にするか話していた。当時はP2Pがトレンドだったこともあり、Tくんは「P2Pでリモートデスクトップアプリを作ってみるのはどうだろうか」と言った。しかしそれは我々の実力からしても無謀な挑戦だったので、「それを卒論でやるのは荷が重いのでやめた方が良い」とアドバイスしたところ、結局Tくんは別のテーマを選んだ。
その話を横で聞いていたのか、それともただの偶然なのか、その会話から2週間くらいたったころKくんがリモートデスクトップのアプリケーションを作ってゼミで発表した。それはSkypeの通信網を使ったもので、通信量を削減するために画像の中でも変化のある箇所の差分データのみを送るという技術的にも工夫が凝らされたものだった。
それを見たとき、この人には一生かなわないなと思った。「身の丈に合った題材を選ぶべき」という発想は凡人の発想で、出来る人はそういう次元を軽く超えていた。それ以来自分は「真っ正面から技術で競うのではなく、少しずれた角度で勝負する」という発想に切り替えた。本物の天才を目の当たりにしたら、持たざるものの戦い方に変えざるを得なかった。
ジレンマ
大学卒業後は地元のSIer企業に就職した。社会人1年目の時、黙々とプログラミングをしていたら、いつのまにか自分の背後に偉い人がいた。「プログラミングは楽しいか?」と聞かれ、「楽しいです」と即答した。するとこう返された。「こういう作業を楽しいと思っちゃいけないんだがなぁ」と。
SIerの仕事は一般的に上流工程と下流工程(この言い方は好きではない)に分かれており、プログラミングする仕事は下流工程に位置づけられ、ある程度経験を積んだら設計などの上流工程の仕事に移行していくのがセオリーとなっている。だからその偉い人は「そういう仕事は早く卒業して上流工程の仕事をしなさい」という趣旨のことを言ったのだと思う。
この一言は呪いの言葉としてそれからずっと自分を悩ませた。会社から求められる方向性と、自分のやりたいことの方向性がマッチしていないジレンマは退職するまで続いた。
名刺が欲しい
社会人になってからしばらくして、自分の『名刺』となるソフトウェアが欲しい衝動に襲われた。「自分はこれを作ってる人間です」と自己紹介できるようなソフトウェア。「自分はこれに関わったメンバーの1人です」ではなく「これを作ったのは自分です」と胸を張れるようなもの。いわゆる代表的プロダクト。
そこで、ブラウザで遊べる将棋のようなボードゲームを作って公開した。当時プロ棋士と将棋AIが戦う電王戦が話題になっており、それに影響された。将棋のAIを作るのはハードルが高いが、自分でルールをゼロから考えたボードゲームならばルールを簡略化し放題なのでハードルが低いのではないかと考えた。
その後もpingのパロディのpongコマンドなど社会の役に立たないツールを色々作るようになり、なんとなく自分のやり方を掴めてきた。
コミュニティ
ボードゲームのWebアプリケーションを作ったことが契機になり、地元のボードゲームコミュニティに顔を出すようになった。他にもボードゲーム系のイベントないのかなとネットを徘徊したところ、ボードゲームとは関係ないが、HTML5のカンファレンスが地元で開かれるらしいことを偶然知った。しかも運営メンバーも募集中らしい。勇気を出して申し込み、生まれて始めてIT系イベントに参加&運営をした。その後もそこで出会った人達とは定期的に勉強会を開くようになり、それは今も続いている。
ペパボへ
地元のIT勉強会で出会った人の中に、akhtさんがいた。akhtさんは当時Goでパーサーを実装していて、なんか凄いことやってる人いるなぁと感じていた。そのakhtさんがペパボに入り、勉強会でも知っていたaiboさんもペパボに入り、なんか身の回りの人がペパボに行ってるなと思っていたところにakhtさんにリファーラルで誘われ、自分もペパボに入社した。そして今に至る。