このアニメ、ロトスコープという実写を下絵にする技法で作られていて、原作漫画の絵柄とあまりにも違いすぎて10年前の放送当時はネットで大炎上、とても酷評されていた。
でも10年経って、原作者の次々々回作『血の轍』が完結した後にこのアニメを観ると、当時このアニメでやりたかったことが分かったような気がした。『血の轍』という漫画もこのアニメも、セリフではなく表情や構図で心境を読者(視聴者)に想像させる場面が多い。なるほどこれがやりたかったのか。
アニメ11話(原作4巻)に以下のような会話シーンがある。
父「…高男、早く食べなさい」
主人公「…すみません、今日は食欲が無いみたいです。申し訳ありません。せっかく作っていただいたのに…。すみません、気分が優れないので自室で横にならせて頂きます。本当にすみません…失礼します」
母「ハァ…(ため息)」
原作ではこれが2ページで描かれ、アニメではこれをたっぷり2分ほど使っている。アニメの2分といったら話がだいぶ進められそうだが、このアニメではたったこれだけのやり取りをじっくり丁寧に描いている。主人公がセリフを言ってから、母親がため息をつくまで約1分無言のシーンが続く。その間に主人公はゆっくりと自室に戻り、夫婦の箸が止まり、気まずくなった父がテレビに目をそらす。そこまで引っ張ったうえで最後に母親のため息が出る。その間会話がないだけでなく、登場人物の顔もぼかして表情も描かれない。でもこの演技から家族のしんどさがひしひしと伝わってくる。
こうやって丁寧に描写を重ねているから、利口な少年が非合理的な奇行を繰り返し破滅へと向かうストーリーに視聴者も納得できる。とは言えこのアニメはやり過ぎなほど非常に贅沢な時間の使い方をしている。アニメ8話では、約10分間のあいだ無言で歩くシーンが続く。表情すら映さずただただゆっくり歩くシーンが続く。7話から連続して視聴すれば高揚感の余韻でこのシーンは十分意味を持つのだけど、地上派アニメでそれをやるのはあまりにも冒険し過ぎだった。このアニメを作った時の監督と原作者は、アニメ7話のようなテンションだったんだろうなと思う。
映画『ジョーカー』の批評で「近くから見れば悲劇。遠くから見れば喜劇」というものがあったけど、まさに惡の華はそういう話だった。主人公の奇行を引いた視点で見れば滑稽に見える。でも主人公の主観で見ると、ひとつひとつの奇行は必然で、そうせざるを得ない切実な理由がある。漫画版は喜劇を、アニメ版は悲劇をより強調して描いていたように感じた。